第2話
「ただいま戻りましたー。」
午後の配達を終えて裏口を開けると、焼き上がったばかりのパンの匂いが、窯の熱と一緒に顔に当たる。
粉だらけの手を前掛けで拭きながら、奥で作業をしていた奥さんがユーリを迎えた。
「おかえりユーリ。今日はもう上がっていいわよ。」
「え、まだ早いですよ?」
普段ならば、ここからユーリはレジに立つのだが。
「どうせ夜はお客なんか来やしないわよ。みんな広場に行っちゃうんだから。」
奥さんが顎で指した表通りを、花冠を被った娘たちが笑いながら通り過ぎていく。
今日は、魔女の祭りの日。
二十二年前、世界中を襲った魔法災害を、十三人の魔女が食い止めた日。街の人々は早めに仕事を切り上げ、夜まで広場で騒ぐのだ。
「ほら、彼女と祭りにでも行ってきなさいよ。この前、お店に来た子、いい感じなんでしょう?」
「はは、見てたんですね。」
「あったりまえでしょう〜。」
ユーリは、ならばお言葉に甘えますと、空の籠を棚に戻し、外套を手に取った。
今夜は行ってみたい店があると、アイシャが仕事終わりのユーリを、店の前で待っていた日。しっかりと覗き見られていたらしい。
「では失礼します。あ、彼女とは別れました。」
ぱたん、と扉が閉まる。
「……ユーリ別れちゃったってえ!」
窯の火を落とし、片付け始めていた主人は、手を止めずに、おうと答えた。
「おうじゃないでしょバカ!心配だわ、もう…。」
─────
共同墓地は、街の東の外れの丘にある。
二十二年前の災害で亡くなった人の多くが眠る、街の墓地だ。市の花屋で買った白い花束を抱えて坂を登るうちに、祭りの笛の音が少しずつ遠くなっていく。
魔女の祭りは、ユーリの両親の命日でもある。
ユーリの両親の墓は、丘の一番上、街を見下ろせる場所に並んでいた。
孤児の親の墓にしては、立派すぎる白い墓石だ。誰が建てたのか、ユーリは知らない。孤児院の先生に聞いても、街の偉い人が建ててくれたらしい、としか分からなかった。
墓石の前には、今年も、ユーリより先に花が供えてある。去年と同じ、一昨年もそうだった。朝一番に来ても、ユーリが一番だったことはない。
「父さん、母さん。来たよ。」
ユーリは花束を並べて供え、墓石の前に腰を下ろした。
両親のことは、何も覚えていない。顔も、声も、自分が二人を何と呼んでいたのかも。
災害の日、二人は逃げ遅れた人たちを守りながら死んだらしい。ユーリが知っているのは、ユーリに部屋を貸してくれている呉服屋の旦那さんから聞いた、その話だけ。
孤児院にいた頃は毎年、先生が子供たちを連れてここへ来た。
他の子が親の墓の前で泣いたり、退屈して走り回ったりしている間、ユーリはずっと、白い墓石に刻まれた二つの名前を見ていた。
どんな顔をしていたのか。怒ると怖い人だったのか。そういうことを考えるのが、好きだった。
「俺、パン屋で配達してるって言ったっけ。言ったよね。」
墓石は、当然何も答えない。
「母さんは、料理上手だった? ……父さんの方かもしれないけど。」
ユーリが料理を覚えたのは、孤児院の台所だった。
誰に教わったわけでもない。気づいたら、先生の手伝いで一番に呼ばれるようになっていた。もしかしたら、どちらかに似たのかもしれない。そう思うと、少しだけ嬉しくなる。
「……あと、去年出会ったって言ってた女の子には、フラれちゃった。」
口に出してから、ユーリは自分で笑ってしまった。命日に、両親に報告することではない。
誰かを守って死んだ二人を、誇らしいと思う。
それでも本当は、ほんの少しだけ、逃げてくれていたらよかったのにと思っている。そうしたら、自分は今頃、家族と祭りに行っていたのかもしれない。
日が傾き、白い墓石の影が、ユーリの足元まで伸びてくる。
ユーリは立ち上がって、膝の土を払った。
「また来るね。」
─────
広場へ続く通りを埋め尽くす、祭りの人混み。
串焼きの屋台では、店主が指先から火を出して肉を炙っている。その隣では、売り子の娘が手をかざして、樽の果実水を冷やしている。
人の流れに押されながら歩いていたユーリは、ふと仮面屋の前で足を止めた。
台の上に、白い仮面がずらりと並んでいる。昨日、市で風に飛ばされていた仮面と同じ店だった。
「お、兄ちゃん興味あるか?こいつらは、十三人の魔女様を模した仮面だ。」
白髪交じりの髭の店主が、台の端から順に仮面を指差していく。
「これが氷の魔女様。北の果てで、今も吹雪から国を守ってんだ。こっちは剣の魔女様、災害のとき、王都の門を三日三晩一人で守ったって話だ。で、こっちが巨砲の魔女様。山に大穴を開けたんだとさ。」
まあ、どこまで本当か知らねえけどな、と店主は笑う。
そうなんですね、と無意識に相槌を打つユーリの目は、台の隅に置かれた一つに吸い込まれている。
他の仮面より少しだけ小さく、飾りも少ない仮面だ。
「ああ、そいつは叡智の魔女様だ。」
ユーリの視線に気づいた店主が、その仮面の目元を、指先でとん、と叩く。
「よく知られてなくてな。それくらいしか特徴ねえんだわ。」
なぜ目が離せないのか、ユーリにもよくわからない。気づけば、ユーリはその仮面を手に取っていた。
「叡智の魔女はな、噂だが実はこの国に──」
薄いのに、しっかりと硬い仮面。ユーリが裏を向けようとしたとき、ピシリと、乾いた音が鳴る。
気づけば、仮面に一筋の亀裂が入っているではないか。
「あっ、す、すみません!」
「ああ、大丈夫だ。兄ちゃんのせいじゃねえよ。」
額から目元にかけてひびの入った仮面を、店主はユーリの手から受け取る。
「こいつは、魔力で形を変える粘土でできてるんだ。職人が魔力を通して形を作って焼くと、薄くて丈夫になる。ただ、魔力の強い奴が持つと、たまにこうなっちまうんだよ。悪かったな、驚かせて。」
ユーリは、自分の手のひらを見下ろした。
そんなはずはない。
「……すみません、ありがとうございました。」
頭を下げ、ユーリはその場を離れた。
─────
広場の中央には、大きな噴水がある。
役所の魔法使いが毎朝魔力を込めているその噴水は、決まった高さまで水を上げると、花のように開き、決まった軌道を描いて落ちる。
ユーリは、噴水の縁に腰を下ろした。
日の沈みかけた広場では、灯りを入れて回る役人が、街灯の硝子に指先を触れていく。触れられた街灯から順に、中の石が白く光り始めた。
楽団が演奏を始め、人々が輪になって踊り出す。
手のひらが熱い。
仮面に触れた指先から、熱が引かない。
配達で走り回って、墓地の丘を登った。きっと、疲れているだけだ。
額に手を当てると、少し熱があるようだった。下ろした手の指先が、小さく震えている。もう片方の手で押さえても、押さえた手まで一緒に震えた。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
仮面を頭の上にずらした女の子が、ユーリの顔を覗き込んでいた。
「……うん。大丈夫だよ。」
ユーリが笑って見せると、女の子は、ふうん、と首を傾げて、輪の中へ駆け戻っていく。
──魔力の強い奴が持つと、たまにこうなっちまうんだよ。
もしかして、俺にも?
そんなはずが無いという諦めを、期待が押しのけようとする。もし本当なら。指先から火が出るなら、もう誰にも羽鰭と呼ばれずに済む。
──魔力の無い貴方との生活は、きっと難しいの。
ユーリは、震える手をじっと見つめた。
期待しているのに、なぜか同じくらい怖い。
ドクン。
心臓ではない胸のどこかが、脈を打つ。
─────
背中の噴水の、水音が変わった。
さらさらと落ちていたはずの水が、ごぼごぼと泡立つような音を立てている。キャアという悲鳴に皆が振り返ると、花のように開いていた水が、形を崩して揺れていた。
すぐそばの街灯が、ちかちかと瞬く。
何事かと、広場にいた全員が手を止めていた。
熱が、手のひらから腕へと上ってくる。腕から胸へ、胸から喉へ。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。噴水や街灯の異常に騒がしくなる人々の声は、水の中で聞いているようにくぐもっていく。
胸を打つ二度目の鳴動は、さらに大きく。
三度目で、噴水が噴き上がった。
轟音と共に、花のように開くはずの水が空へまっすぐに伸び、広場中に雨のように降り注ぐ。
───おい、不味い!離れろ!
───見て!あっちも!
パン、パン、と、広場を囲む街灯が端から順に爆ぜていく。
屋台の火が一斉に高く燃え上がる。仮面屋の台の上では、白い仮面が次々と割れていく。
───みんな逃げろ!
───なんだ、何が起きてる!
噴水の縁から崩れ落ちたユーリは、濡れた石畳に頬をつけたまま、動けなかった。
何が起こっているのかわからない。
苦しい、息ができない。
身体の内側が、焼けるように熱い。
逃げていく足音が、遠ざかっていった。
─────
コツ、コツ、と。
濡れた石畳を、歩く者。
「おい、危ないぞ姉ちゃん!」
声の主は、仮面屋の店主。
皆が逃げられるように声を上げていた彼の手には、ひびの入った仮面が握られたままだ。
逃げる人々とは逆に歩いていく女を追いかけ、肩を掴もうとした店主は、振り返ったその顔を見て、手を止める。
つば広の帽子の下にある顔を、店主は見てしまった。その目元には、店主の手の中の割れた面と同じ、三つ並んだ涙ボクロ。
「アンタ、その顔、もしかして……。」
シーッ。
唇の前に指を一本立てた女に、店主はあぁ…と情けない声をもらし、そのまま後ずさる。
女は、倒れたユーリの傍に膝をつく。
冷たい手がユーリの頬に添えられ、そっと顔を上へ向けさせた。
「ねえユーリ、苦しいでしょう?」
つば広の帽子に、裾の長いローブ。
いつもの、薬草の匂いがするエプロン姿ではない。まるで、子供の頃に本で見た魔女のような。
「マクス……ル、さん…?」
ユーリは、仮面屋でのことを思い出す。
そうだ、自分が目を引かれた仮面にあった、あの小さな三つのホクロ。
そうだあれは、毎日見ている顔だった───。
「この時を待っていたわ、ユーリ。」
どういうこと?その言葉が出ない。
ただ、燃えるように熱い肺の熱を必死に逃がそうと、ユーリは懸命に息を吐く。
「大丈夫、すぐに楽にしてあげる。」
「マ………ェル………さ……。」
レイの腕が、ユーリの頭を抱く。
その大きな胸に、大切なものを抱えるように。
「私が貰ってもいいわよね?それ。」