第1話
「ユーリ、手、冷たくない?」
明日に控えた祭りの支度で、市の通りは、いつもの倍の人々が行き交っていた。
手袋を忘れてきたユーリの手を、アイシャが両手で包む。途端に指の隙間から、じわりと熱が伝わってきたのは、アイシャの得意な火の魔力だ。
「あったか……。」
「でしょ。」
得意げに笑うアイシャに、ユーリもつられて笑ってしまう。
冬の雪祭りの夜も、アイシャはこうして手を温めてくれた。ユーリが自分で火を出せないことを、アイシャは一度も笑ったことがない。
通りの先では、屋台の軒に吊るしていた仮面の束が、強い風に煽られて外れてしまう。
白い仮面がいくつも宙に舞った。けれども、地面に落ちることはなく、ふわりと空中で止まる。
「わ、おじいちゃんすご。」
屋台の隣にいた老人が、杖の先を軽く持ち上げている。仮面は風に乗るように軒先へ戻っていき、店主の男がぺこぺこと頭を下げる。
「風の人なら、あれくらい普通だよ?」
「俺から見たら、どれもすごいんだって。」
アイシャは、そっか、と小さく笑った。
そのまま何かを言いかけて、口を閉じる。
「ん?」
「……ううん、なんでもない。」
今日のアイシャは、何度かこうして言葉を飲み込んでいる。
ユーリは気になりながらも、聞かずにいた。言いたくなったら、アイシャの方から言うだろうと思ったからだ。
魚屋の前を通りかかった時だった。
木箱の上に手をかざし、並んだ魚に冷気を当てていた女房が、ユーリに気づいて顔を上げる。
「あら、パン屋のお兄ちゃん。今日はデート?いいわねえ。」
こんにちは。とアイシャが頭を下げる。こういう場面は少し照れくさい。
「羽鰭なのに毎朝ちゃんと働いて、偉いわよねえ。お嬢さん、この子いい子だから、大事にしてあげてね。」
「あ、お姉さん!ユーリは…!」
「いいんだよ、アイシャ。」
ユーリはアイシャと繋いだ手をギュッと握り、何かを言いかけたアイシャを止めてしまう。
代わりに、また買いに来ますねと女房に微笑むユーリを見て、アイシャはまたぐっと言葉を飲み込む。
ユーリの手を握るアイシャの指に、力が籠もった。
─────
市を抜け、川沿いの道に出る頃には、空が赤くなり始めていた。
アイシャの口数は、市を出てからさらに減っている。川べりの石段まで来たところで、アイシャが少し休んでいこうと提案し、二人はそこに腰を下ろした。
川面を、一羽の鴨が流れていく。アイシャは膝の上で、指を組んだりほどいたりしていた。
「……ねえ、ユーリ。」
「うん。」
「…………。」
アイシャはまた、口を閉じる。
ユーリは急かさなかった。何の話なのか、さっきの魚屋の前あたりから、なんとなく分かっていたからだ。
「ごめんなさい。もうユーリとは会えない。」
俯いたまま、震える声でアイシャは言った。
分かっていたはずなのに、ユーリはしばらく何も言えなかった。川の音ばかりが、やけに大きく聞こえてしまう。
「……理由を、聞いてもいい?」
「…お父さんが、やめなさいって…。私は気にしていないのよ。でも、…将来のことを考えたら、魔力の無い貴方との生活は、きっと難しいの。子供だって……。」
アイシャとはまだ、ちゃんと男女の関係になっていたわけではない。
酔っ払いに絡まれていたアイシャを、偶然庇っただけの縁だ。そこから意気投合して、街の外へホタルを見に行き、夜の町で酒を飲み、雪祭りを一緒に回った。
ユーリにとっては、既にとても惜しい存在になっていた。けれど、アイシャを責める気にはなれない。アイシャの父親の言うことも、何も間違ってはいないのだから。
「そっか。…悲しいけど、大丈夫だよ、教えてくれてありがとう。」
ユーリが笑って見せると、アイシャの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「っ……、それじゃあ、ごめんね…。」
アイシャは、素早く立ち上がる。
「それと、あの…さ、薬屋の……。」
「ん?なんて?」
再び何かを言いかけるアイシャ。
しかし、ハッと何かに気付き、また言葉を止めた。
「……ごめん、なんでもない。さようなら。」
アイシャは、ユーリに背を向け、一度も振り返らずに走っていく。その背中が見えなくなるまで、ユーリは石段に座り、アイシャを目で追い続ける。
「さようなら、アイシャ…。」
さっきまでアイシャに温めてもらっていた手が、もう冷え始めている。
春先の風が、今日はやけに冷たかった。
─────
壁の灯籠は、俺の手が触れても光ることはない。机の上の油のランプに火を入れる気にもなれず、自室の暗い部屋の床に座り込んだ。
暗がりの中で、手のひらを広げてみる。
目を閉じて、指先に意識を集める。それから、身体の奥にある温かいものを、指の先まで流してくる。孤児院の先生は、そう教えてくれた。
六つか七つになると、孤児院の子供たちは、一人、また一人と自分の魔力に気づいていった。指先に小さな火を灯して見せびらかす子もいれば、コップの水を揺らして先生に褒められる子もいた。
けれど、俺の指先はいつまでも冷たいままだった。
十になった年、先生に連れられて治癒院へ行ったことがある。
俺の胸に手を当てた神官は、長い間黙ってから、無いわけではない、と告げた。ただ、表に出てこないのだと。どうすれば出てくるのかと先生が聞くと、神官は首を振り、王都の学術院か、伝説の魔女様方なら何か分かるかもしれない、とだけ答えた。
残念ながら、俺にはそんなコネはない。
──羽鰭なのに毎朝ちゃんと働いて…
昼間の、魚屋の奥さんの声が耳に残っている。
大地に足をつけずに生きる鳥や魚は、魔力を持たずに生まれてくる。羽鰭は、その二つをまとめて呼ぶ古い言葉だそうだ。
奥さんに悪気がないのはよく分かってる。褒めてくれてたんだ。それでも言われるたびに、まるで自分が人として数えられていないような、そんな気持ちになるのは、仕方がない。
ゆっくりと、目を開ける。
手のひらは、さっきと何も変わっていない。
「…わかんないや。」
ホタルを見に行った夜のことを思い出す。
足元が見えないと笑った自分のために、アイシャは指先に小さな火を灯して、ずっと前を歩いてくれた。
あの火がもう隣にないことが、今になってようやく分かってくる。膝を抱えたまま、どれくらいそうしていたのか。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
その時、コンコンと戸が叩かれた。
「ユーリ、帰ってるんでしょう?」
隣で薬屋を営む、レイ・マクスウェルの声だ。
俺が十二で孤児院を出て、この呉服屋の二階に越してきた日から、ずっと傍にいる人だ。歳の離れた姉のようでもあり、母親のようでもある、そんな人。
俺は慌てて目元を擦って、戸を開けた。
「……ただいま、マクスウェルさん。」
「おかえりなさい。灯りが点いてないから、まだかと思ったわ。」
マクスウェルさんは、暗い部屋の中にはちらりとも目を向けなかった。ただ、俺が身体を冷やしていないかと心配してくれる。
「お風呂入っていくでしょう?それとね、お願いがあるんだけど……。」
「ご飯でしょ?作りますよ。」
「ふふ、ありがとう。ユーリじゃないと上手に作れないわ。材料は用意してあるからね。」
俺の部屋の隅にある湯船は、底の石に魔力を通さないと湯が沸かない。だから風呂は、十二の頃からずっとマクスウェルさんの家で借りている。
その代わりに、俺がマクスウェルさんの夕飯を作る。いつの間にか、それが二人の決まりになっていた。
─────
レイの台所には、調味料がよく揃っている。
ユーリは棚から、茸と玉葱を炒めて煮詰めたペーストの瓶を取り、ミルクベースのソースにひとさじ落とした。真っ白だったソースが、みるみるうちに茶色く染まっていく。
塩で味を整え、茹で上げたパスタを絡める。具は、レイが用意してくれていた油漬けの豚肉と、たっぷりの葉野菜だ。
麺は、自分の皿に少し多く。具とソースは、レイの皿に少しだけ多く。
そんなことしなくていいと口を尖らせていたレイも、今はありがとうと受け取ってくれるようになっている。
「いただきます。」
二人は向かい合い、声を揃えた。
いつもなら、今日のお出かけはどうだったの、とレイが聞いてくる頃だった。しかし、その時が来ない。
「今日さ、フラれちゃった。」
黙っていると、川べりの石段に戻ってしまいそうで。ユーリは自分から口にしてしまう。
「…そう。落ち込むことは無いわよユーリ。その子の見る目が無かっただけなんだから。」
「うん、ありがと。…でもしょうがないよねって思うから、あんまり落ち込んではないんだ。確かに、子供が俺と同じだったらって思うと、相手には申し訳ないし。」
レイの、フォークを持つ手が止まる。
「言ったじゃない。そうはならないって。」
確かに、レイに言われたことがある。
子供ができても、その体質は遺伝しないと。それを告げられたのは、いつかレイの前で泣いてしまった日のことだ。
「……前から思ってたんだけどさ。」
ユーリは、フォークを皿に置いた。
「なんでマクスウェルさんは、そこまで言い切れるの?治癒院の神官様だって、分からないって言ってたのに。」
レイは、すぐには答えなかった。皿の上のパスタをくるくるとフォークに巻き付け、それを口に運ぶ。
「……薬屋だもの。色んな人の身体を診てきたのよ。」
「それ、答えになってる?」
「なってるわよ。」
レイは笑って、またパスタを巻き始める。
ユーリの目が向いたのは、フォークを摘むように持つ、レイの細い指。レイの手はあんなに細かっただろうかと、そんなことを考えてしまう。
「……あ、ユーリ。今、何か失礼なこと考えてたでしょう。」
「か、考えてないよ。」
「嘘。顔に書いてあるもの。」
むすっと口を尖らせるレイの顔は、ユーリが十二の頃に初めて会った時から、少しも変わっていない。
大きな魔力を持つ者ほど、身体の時間は進まなくなる。いつだったか、レイ自身がそう言っていた。
「……俺の方が大きくなったなって、思っただけ。」
「身長はね。私の方がお姉さんなんだから。」
「わかってるけど。こうしてると同い歳くらいに見えるよ。」
「あら、お上手。…レイって呼んでもいいのよ?お友達のように。」
「や、勘弁してよ、マクスウェルさん、悪かったから。」
クスクスと笑うレイに、ユーリは一生勝てなさそうだと悟る。
変なことを聞いてしまった居心地の悪さは、いつの間にか消えていた。
「……あれ、マクスウェルさん、それ。」
頬杖をついたレイの腕に、ユーリの目が止まる。
生成りの袖が、手首から肘の近くまで、赤黒く染まっていた。
「え?ああ……。」
レイは袖に目を落とし、それから困ったように笑う。
「薬草で少し切っちゃったの。大丈夫よ、もう治してあるから。」
ひらひらと振って見せる白い手には、指にも手のひらにも、傷ひとつ見当たらない。
あれだけの血が出る傷でも、魔法を使えるレイは、簡単に自分で治してしまうのだ。
「そっか。さすがだね。あ、洗ってくる。」
無意識に、自分と比較してしまいそうになる。
ユーリは自分とレイの皿を重ね、台所へ向かう。
─────
台所から、皿を洗う水の音がする。
「…気付かなかった。油断したわね。」
レイは袖を持ち上げ、軽く振った。赤黒い染みが霧のように霞み、空気へ混ざって消えていく。
「…あんな女、忘れてしまいなさい。」
水の音で、その声はユーリには届かない。レイは、台所に立つ背中を見つめたまま小さく呟いた。
「……大丈夫よ、ユーリ。私に任せて。」